らごら



浄徳寺 住職
廣岡 憲雄

月報 「らごら」1月号より抜粋

  あけましておめでとうございます。

 昨年末から、風邪がはやっていすが
 皆様方はこの長引く風邪に負けずにがんばっておられるでしょうか。
 私も十一月の終わり頃にこの風邪をどこからか頂いたのか
 自分で作り出したのか分かりませんが
 長い間声が出ず、法事や、お葬儀で皆様方にご心配やご迷惑をおかけしたことと思います。
 
 今年一年皆様方とともに、安心して自分自身を阿弥陀様におまかせの出来る
 しっかりとした心が育つお念仏を求めていきたいと思います。
 『さあ、がんばりましょう。』でなくのんびりとお浄土への道を歩んでいきましょう。

 浄土真宗の教えは大変難しいと思います。
 『あれをしてはいけない、これこれをこのようにしなさい 。』と
 言われるままにする事は私たちにとっては大変やり易いものです。
 いつもお話をさせて頂いていますが
 真実(絶対に変わる事がないもの)を求めるのが宗教なのです。
 しかしその真実なるものが私には信ずる事が出来なく
 私の目に見え、変化するものが真実であると
 思い追い求めている浅ましい姿が現実の姿です。

 今年は、本当に真実を求める事を修行してみましょう。
 親鸞聖人の歩まれた後を偲びながら、少しずつ歩みましょう。

  祈りなき宗教

 浄土真宗では、仏様に向かい祈るという行為はしません。
 一般的には、仏様や神様に手を合わせたり叩いたりして
 自分の願いが叶うようお祈りをします。
 では浄土真宗でのこのような行為は何を意味するのでしょうか。

 『念ずる。』という言葉を用います。それは単なる言葉の綾だと言ってしまえばそれまでですが
 『念ずる。』とは、『心に強く思う。』という意味なので
 お願いをすると言う事とは大変に異なる事なのです。
 『祈り』とは、私の自己中心の心から起こる欲望を満たしてもらうための行為なのです。
 だから願いがかなえれば感謝をしますが、叶えられなければ不平不満の心が起こります。

 もし『私だけの願い』がすべて叶ったら
 この世の中は不平等なとげとげしい世の中になってしまうでしょう。
 私たちは、仏様の願いが実現すると信じて
 私の寿命を全うするまでこの苦悩に満ちた人生をがんばって生きています。
 私と仏様の願いは何処が異なるのでしょうか。
 私の願いは、常に自己中心であって
 あれが欲しい、これも欲しい、誰にもあげたくないという心から起こる我欲をたのむものです。
 仏の願いは、そのような自分勝手な願いを叶えてくださいとたのんでいる私に向かって
 そのような自己中心の願い・欲望しか持てない自分自身を真剣に見つめ直し
 正しい方向に向かって生きて欲しいと願ってくれるのが仏様の願いなのです。

 浄土真宗では私の願いを叶えてもらうのではなく、仏様の願いを聞く事が大切なのです。
 私たちは、本堂のことを門法の道場と言います。

   新年を迎え、今年の目標をどのように決められましたか。

 毎年目標を決めながら少しよそ見をしている間に
 大晦日がやってきて一年が終わってしまいます。
 そのようなせわしない過ごし方をしている間は
 『本当の願い』や、『人生について』等を考える時間が持てないと思います。

 テレビ、新聞、携帯電話のない世界で空を見てゆっくりと過ごしてみたいと思いませんか。
 そうだ、これを今年の目標にしようと思い立って十日がたちました。
 たった十日でこの目標もつぶれてしまいました。
 『らごら』を作らなければと思い朝から書き始めやっと出来ました。

 一歩外を見ると、自己中心の欲望を満たして欲しいとお願いをする
 『えべっさん』ああ行きたいなア、と思いつつ
 住職がそんなことを考えて良いのかナ、と
 お叱りの言葉が聞こえてくるような気がします。
 でも何となくお祭りは楽しいよネ。

 私には人に与えるような効き目のある『福』や『願い』を持っていませんが
 あの飴には何となく福があるような気がします。
 私はお願いなんかしないけれど毎年あの飴を買いに行くのです。
 自分では食べませんが、福が欲し言い方におすそ分けをします。
 亡くなった姉にもよくあげました。
 『福が来た』という答えを聞きそこねましたが姉には福が来たのでしょうか。
 おそらく来たのでしょう。

 思えば子どもの頃、母親が西宮えびすによく連れて行ってくれました。
 雪が降ることが多く大変寒かった記憶があります。
 それ以来高校生の頃友達ともよく行きました。

 変な住職さんと思われますか。中身は皆さんと同じなのです。では!