浄徳寺トップ らごら What is Buddism? Temple Story
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よく、「なぜ浄土真宗では般若心経をお勤めしないのですか?」と聞かれます。 多くの方がどちらも仏教のお経(正確には正信偈はお経とは少しちがいます)なのに なぜ?と思われるようです。 『西遊記』で有名な三蔵法師の玄奘訳の600巻にものぼる『大般若波羅蜜多経』があります。 この『大般若波羅蜜多経』の、いわはエキスが『大般若波羅蜜多心経』略して 『般若心経』です。 『般若』とは真実を正しく見ぬく智慧です。『波羅蜜』とは 覚りに至達するための菩薩の実践行です。 いずれにしても『般若心経』は、真実をぬく見る智慧と菩薩の実践行によって煩悩を絶ち切り、 仏の覚りにいたろうとすりものです。 しかし、ひとくちに『煩悩』を断ち切ると言っても、なまやさしいことではありません。 自らの力によって煩悩を断ち切ろうと教える『般若心経』(自力)に対し『正信偈』は 阿弥陀如来のお力に、一切のはからいを捨てておまかせし それによって救われたことのよろこび(他力)が説かれたものです。 つまり、私たち真宗門徒が『般若心経』をおつとめしたり、写経することは、 阿弥陀如来のお力の否定になります。『般若心経』をあげないのはそのためです。 |
『聴聞ということ』 |
除夜から元旦を迎えるとにわかに信仰心がよみがえり 社寺仏閣へ通い始める人がたくさんてます。 しかし、こういう人達はお参りや信仰心は利益のためであり、 神仏のご利益で物欲や名誉欲は満たされると勘違いしてる人達であります。 本当の信仰とはそのようなものでは決してありません。 しかし、世間の誘惑におぼれて真の幸福を知らない私達にも、 真の幸福をあたえてくださるのが如来様であります。 本当の幸福とは、久遠の昔から無明の闇を流転してきたこの私が、 如来の本願力によって 心静かに安らかな日暮を送る身にさせていただくことなのです。 親鸞聖人は、信心とはこちらから信じてかかるものではなく、 如来様から与えられたものなのだと教えてくださっっております。 み仏の「み心」が私にとどいて下さった時、正しい信仰を持つ身にさせていただくのです。 そのためになによりも必要なのが「聴聞」です。 聴聞とは心の耳をすませて。「み教え」をきく事です。 聴聞で正しい信仰を得ると、何事も「み仏」のお慈悲の光の中にはぐくまれ、 生かされてきたのがこの私であってと、感謝の中に日々を送れるようになれるのです. 合掌 |
『善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや』 |
善人でさえも往生することができる。ましてや悪人はなおさらのことです。 ところが世間の人達は、「悪人さえも往生するのなら、善人はなおさらだ」といいます。 これはいちおう道理にかなっているようですが、 阿弥陀如来の他力本願のおこころに反しています。 というのは、自分の力で善根功徳を積んでさとられると思っている善人には、 阿弥陀如来におまかせする気持ちがまったくないのですから 本願他力のおこころにそわないのです。 しかしながら、このような善人であっても 自力のこころをひるがえして、他力におまかせしさえすれば、 真実のお浄土に生まれることができるのです 煩悩具足のわたしたちは、どのような修行によっても まよいの世界を離れることはできないのです。 そのようなものをあわれんで、阿弥陀如来はご本願をおこされたのですから、 他力におまかせする信心が往生の正因であって 自分の善をあてにするひとよりも悪人が本願のおめあてになるのです。 そこで、「善人でさえもすくわれる、まして悪人はなおさらすくわれる」と仰せになりました。 |